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本願力にあひぬれば [親鸞の和讃に親しむ(その45)]

(5)本願力にあひぬれば(これより天親讃)

本願力にあひぬれば むなしくすぐるひとぞなき 功徳の宝海みちみちて 煩悩の濁水(じょくすい)へだてなし(第13首)

本願力におうたらば、そのまま過ぎるひとはない。功徳の宝みちみちて、煩悩あれどへだてなし

『浄土論』の有名な一節、「仏の本願力を観ずるに、遇ひて空しく過ぐるものなし」をもとに、本願力に遇うことができさえすれば、われらはこの人生を空しく過ごすことはなくなると詠います。それを裏返して言えば、本願力に遇うことができなければ、われらはこの人生を空しく過ごさざるをえないということです。本願力に遇うことで「前念に命終し、後念に即生する(前念命終、後念即生)」(善導)のであり、そのときを境に人生が一変するのです。さてしかし人生を空しく過ごすとはどういうことでしょう。それは、いつも「わたしのいのち」にケチをつけながら生きるということです。これは「わたしのいのち」であり、すべてはこの「わたしのいのち」あってのものだねと思いながら、その「わたしのいのち」になんだかんだとケチをつける。いや、すべてはこの「わたしのいのち」にかかっていると思うからこそ、その「わたしのいのち」にあれこれと不満をもつことになるのです、「“わたしのいのち”はこんなはずじゃない」と。

問題の根源は「わたしのいのち」がすべてという了見にあります。「わたしのいのち」がすべてであるということは、それがなくなったら一切が終わりということになります。ですから、できるだけ「わたしいのち」を永らえさせようと涙ぐましい努力をすることになるのですが、であればこそ、どうして「わたしのいのち」はこうも病気がちなのかと不平をかこつことになります。また「わたしのいのち」を輝かせていかなければいけないのに、他のいのちたちと比較してどうしてこんなにも冴えないのかと虐めるのです。しかし、本願力に遇うことができますと、それがとんでもない了見違いであることに気づかされます。「わたしのいのち」は「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に他ならないことに目覚めるのです。「わたしのいのち」はもちろん至らないところだらけですが、でもそのままで「ほとけのいのち」に生かしていただいているのですから、それ以上何を言うことがあるでしょうか。「ありがたい、南無阿弥陀仏」と言うしかないではありませんか。


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