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念仏は行者のために、非行・非善なり [『歎異抄』ふたたび(その76)]

(6)念仏は行者のために、非行・非善なり

 次に第8章に進みます。

 念仏は行者のために(にとって)、非行・非善なり。わがはからひにて行ずるにあらざれば、非行といふ。わがはからひにてつくる善にもあらざれば、非善といふ。ひとへに他力にして、自力をはなれたるゆゑに、行者のためには、非行・非善なりと云々。

 『正像末和讃』の一首に「真実信心の称名は 弥陀回向の法なれば 不回向となづけてぞ 自力の称念きらはるる」とあり、われらが念仏を回向するのではなく、それは如来の回向であり、われらから言えば不回向であると詠われていますが、それがここでは念仏は「行にあらず、善にあらず」と言われています。不回向も非行・非善もまったく同じであり、つまるところ自力ではなく他力であるということです。さあしかし、称名念仏が自力ではなく他力であるということは、なかなかピンときません。口に「南無阿弥陀仏」と称えることがどうして自力ではないのでしょうか、それが他力とはどういうことでしょうか。「ひとへに他力にして、自力をはなれたる」とあるのをどう理解したらいいのでしょうか。ここでこの根本問題に腰を据えたいと思います。
 確認しておきたいのは、われらが意識的に何かをするときは、かならず自分で「そうしよう」と思ってしているということです。
 無意識にすることはその限りではありませんが、意識的である以上、それがどれほど不本意なことであろうと、結局のところは「そうしよう」と思っています。『私は貝になりたい』という昔のテレビドラマを思い出します。一人の哀れな二等兵が、杭に縛られた捕虜のアメリカ兵を銃剣で刺すよう上官から命じられます。新兵の肝試しです。二等兵はその命令に逆らうことができなかったのですが、そのことで戦後、国際軍事法廷にかけられることになります。その法廷で二等兵は「それはわたしの意思ではありません、上官の命令は天皇の命令で従わざるをえないのです」と抗弁しますが、検察官は「しかしあなたはロボットではありませんから、ほんとうにいやだと思ったら拒否できたはずです」と追及し、下された判決は死刑でした。何とも重苦しい結末にしばらく席から立ち上がることができませんでした。

タグ:親鸞を読む
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