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ただ弥陀の本願海を説かんと [親鸞の手紙を読む(その97)]

(4)ただ弥陀本願海を説かんと

 諸仏の一人である釈迦と弥陀の関係を考えてみましょう。浄土の教えでは、釈迦は弥陀の本願を説くためにこの世に現れたとされます。「正信偈」には「如来所以興出世、唯説弥陀本願海(如来、世に興出したまふゆへは、ただ弥陀本願海を説かんとなり)」とあります。釈迦は釈迦自身の教えを説くためではなく、弥陀の本願を説くために、ただそのために現れたということ。ここに諸仏と弥陀との関係がはっきり語られています。世に多くの仏が(そして菩薩衆が)現れたまうのは、ただ弥陀の本願を説き、それをあらゆる衆生に手渡すためだということです。
 これは浄土教の独善的姿勢に見えます。一切が弥陀の本願に集約されるとする横暴。しかしまったく別の見方をすることもできます。釈迦は釈迦独自の新しい教えを説いたのではなく、弥陀の本願を説いたのであるということは、釈迦はすでに示されている真理を釈迦流に語っただけであり、とすれば、それ以外の語り方もありうるということになります。真理はひとつしかありませんが、それをどう語るかはさまざまであるということです。真理そのものは「こころもおよばれず、ことばもたへたり」(『唯信鈔文意』)ですが、その真理に気づいた人がそれを何とかしてことばにしようとするとき、さまざまな語り口が生まれてくる。
 縁起や無我はひとつの語り口(聖道門の語り口)で、弥陀の本願もまた別の語り口(浄土門の語り口)であるということです。これは仏教のなかでの話ですが、それをもっと広く他の宗教へと及ぼすこともできるでしょう。キリスト教の「神の愛」も、ただひとつの真理のキリスト教的な語り口であるということができます。このように考えることで宗教の排他性を乗り越えられるのではないでしょうか。真理はひとつだが、それをどう語るかはさまざまだから、それぞれが他の語り口を尊重しあうことにより、宗教間・宗派間の無益な争いを避けることができると思うのです。

タグ:親鸞を読む
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