SSブログ
「親鸞とともに」その121 ブログトップ

永遠の「いま」 [「親鸞とともに」その121]

(5)永遠の「いま」

次に「わたしのいのち」が「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」に生かされていると気づくときですが、親鸞はこの気づきのありようを「よこさま」と表現します。下から上へと「たてさま」に進んできた時間軸があるとき「よこさま」に断ち切られるというイメージです。これまで「わたしのいのち」の時間が坦々と流れていたところに、突如として「ほとけのいのち」が姿をあらわすのです。そのようにして時間の流れが「よこさま」に切られたその「いま」に、「わたしのいのち」の過去のすべてが含まれています。そして「わたしのいのち」の未来のすべてもこの「いま」に含まれ、過去と未来がこの「いま」において同時にあるのです。

時間が流れるなかでは、まず原因があり、そしてその結果があるという関係でしたが、時間が断ち切られた「いま」においては、因があるところに果があり、果があるところに因があるというように、因と果が同時です(これが仏教の縁起因縁です)。これは時間の流れのなかに「永遠」が姿をあらわしたと言うべきでしょう。死ぬことを「永遠の眠りにつく」などと言ったりするように、われらは何となく「永遠」とは死んでからのことと思っています。しかし、実は「ほとけのいのち」に生かされていると気づいた「いま」、われらはすでに「永遠」に出あっているのです。「いま」すでに「永遠」がはじまっているのです。

これが浄土の教えの救いで、救いは「いま」ということですが、ではこの救いの「いま」は浄土の教えにおいてどのように説かれているかを見ておきましょう。またしても第十八願成就文です。「その名号を聞きて(聞其名号)、信心歓喜せんこと(信心歓喜)、乃至一念せん(乃至一念)。至心に回向したまへり(至心回向)。かの国に生ぜんと願ずれば(願生彼国)、すなはち往生を得(即得往生)、不退転に住せん(住不退転)」という一文が、救いの「いま」のありようを見事に表しています。まず「聞其名号」の「いま」ということから。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
「親鸞とともに」その121 ブログトップ