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往相と還相 [はじめての『高僧和讃』(その67)]

(10)往相と還相

 これでみますと、往相回向とは「安楽国へ往生せんと」努力することで、還相回向は「生死の稠林に」戻ってきて「一切衆生を教化する」ことと言えるでしょう。どちらも「われら」がすることです。これは天親が五念門(礼拝・讃嘆・作願・観察・回向)の一つとして上げている回向を注釈するなかで述べられていますから、「われら」が回向するという構図にならざるをえないわけです。
 ところが親鸞は、曇鸞の真意はそこにあるのではないとみて、先に上げた文、「往相とはおのが功徳をもって一切衆生に回施して、ともにかの阿弥陀如来の安楽国に往生せんと作願するなり」をこう読みかえるのです。「往相といふは、おのれが功徳をもて一切衆生に回施したまひて、作願して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり」と。かくして作願し回向するのは「われら」ではなく「阿弥陀如来」になります。
 どうしてこんな大胆な読みが可能なのか。それは、前にも少しふれましたが(2)、曇鸞自身が『論註』の結論部でこう言っているのです、「おほよそかの浄土に生ずると、およびかの菩薩・天・人の所起の諸行(五念門のこと)とは、みな阿弥陀如来の本願力によるがゆゑなり」と。礼拝し讃嘆し作願し観察し回向するのは紛れもなく「われら」ですが、「われら」にそれができるのは「弥陀の本願力」がはたらいているからであるということです。
 そこに『論註』の画期的な意味を見た親鸞は、往相回向も還相回向もみな阿弥陀如来のなせるわざであるとして、自信をもって「往相といふは、おのれが功徳をもて一切衆生に回施したまひて、作願して、ともにかの阿弥陀如来の安楽浄土に往生せしめたまふなり」と読んだのです。そして同じく「還相というは、かの土に生じをはりて、生死の稠林に回入して、一切衆生を教化して、ともに仏道に向かへしめたまふなり」と主語を阿弥陀仏にして読みかえます。

タグ:親鸞を読む
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