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自力を捨て他力をとる、のではなく [はじめての『高僧和讃』(その109)]

(11)自力を捨て他力をとる、のではなく

 道綽は「起悪造罪は暴風駛雨にことならず」というところから、「だから本願他力に乗じて往生するにしかず」と論をすすめるのですが、ここは注意を要するところです。
 暴風駛雨のような「起悪造罪」のなかで、自力で「起心立行」(第58首)することは不可能だから、他力により往生するしかないと理解してしまいますと、自力と他力が天秤にかけられ、自力を捨て他力をとるという構図になります。しかし「自力を捨て他力をとる」というのはひとつの決断であり、それはもはや他力ではなく自力と言わなければなりません。そしてそれに伴って、浄土に往生するのは起悪造罪の暴風駛雨がおさまる臨終のときを待つということになります。こちらから他力をたのむことと、往生するのが臨終であることはひとつです。
 他力に乗じて往生するというのは、こちらから他力に乗ろうとするのではなく、すでに他力に乗っていることに気づくということです。そしてすでに他力に乗っていることに気づくことが往生することに他なりませんから、もう臨終を待つことはありません。他力に気づいたそのときにもう往生がはじまっているのです。起悪造罪の暴風駛雨がおさまってから往生するのではありません、その暴風駛雨のただなかで往生がはじまるのです。いや、もうとっくに往生がはじまっていることに気づくのです。これが即得往生の意味です。
 暴風駛雨のただなかにいるという気づきと、本願他力のただなかにいるという気づきはひとつです。
 暴風駛雨のただなかにいるから、たまらず本願他力をたのむのではありません。それでは本願他力がどこか向こうの方にあります。そうではなく、暴風駛雨のただなかにいると気づくことが、そのまま本願他力のただなかにいると気づくことに他ならないのです。いや、こういうべきでしょうか。暴風駛雨のただなかにいると気づいたときには、すでに本願他力のただなかにいると気づいているのだと。宿業の気づきと本願の気づきはひとつである。機法一体とはそういうことです。

タグ:親鸞を読む
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