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原因概念のもとは「われら」が何かを「する」こと [「親鸞とともに」その94]

(8)原因概念のもとは「われら」が何かを「する」こと

しかし願生があるところ、すでに得生があるというのは、どうにも不自然に感じられます。その不自然さのよってきたるもとは「願う」ということばにあると思われます。往生を「願う」となりますと、それは当然「われら」が「願う」ということですから、そうしますと「願う」とき、すでに「得ている」と言われても、どうにも飲み込めないのです。あることを「願う」ことと、それを「得る」こととの間には多少を問わず、時間の流れがあるはずだからです。つまり「願う」ことは原因であり、「得る」ことはその結果であるという異時因果としか考えることができないということです。

ここからほのかに見えてきますのは、どうやら原因という概念の源泉は、「われら」が何かをすることにあるのではないかということです。「われら」が何かをすることが原因となって、その結果として何かが起こるということ、これが原因・結果という概念の元来の姿ではないでしょうか。いつしかその概念が「われら」の関与しない自然現象にも適用され、あることが原因となって、別のあることを結果として引き起こすというように見ることになったのではないか。そしてそのとき、原因とされるものは擬人化され、その現象は、あたかも「われら」が何かをすることが原因となって、ある結果を生み出しているかのように見られていると思えるのです。

前に原因・結果の概念の本質はその実践的有効性にあると言いましたが(2)、それもいま述べたことに関係していると思われます。実践的有効性とは、何かをえようと思えば、その原因を探り、それを実現すればいい、また何かを避けようと思えば、その原因を見つけ、それを取り除けばいい、ということですが、この実利性が原因・結果概念の根底にあるということは、つまるところ、「われら」が何かをすることが第一の原因となるということです。われらが何かの原因を探るのは、その責任は誰にあるかという問題意識からであり、それはつまり誰が第一原因かということですから、やはり原因概念の源は「われら」にあると言ってよさそうです。


タグ:親鸞を読む
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