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ことばもたへたり [はじめての『尊号真像銘文』(その69)]

(16)ことばもたへたり

 本願に遇うことに「よって」功徳の大宝海に入ることができるのではありません。もしそうでしたら、本願に遇うことが功徳の大宝海に入るための条件となりますが、功徳の大宝海に入るのに何の条件もありません。もうみなすでに大宝海に入っているのです。では本願に遇うとは何かといいますと、もうすでに大宝海に入っていると「気づく」ことにすぎません。本願に遇ったそのとき、「あゝ、もうとっくの昔から功徳の大宝海に入っていたのか」と気づくのです。これが本願を信じることです。「まうあふと申すは、本願力を信ずるなり」とあったのはこれです。
 功徳の大宝海と言われてきたのは要するに浄土のことです。本願に遇ったそのとき、もうすでに浄土にいることに気づくのです。親鸞が手紙で「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居す」と言っていたことです。さてしかし「信心のひと」は、本願に遇えたとはいえ、依然として煩悩を抱えたまま穢土にいます。としますと、穢土が穢土のままで、そっくりそのまま浄土でもあるということになり、これはもう「こころもおよばれず、ことばもたへたり」です。
 ことばというものは論理の法則に従わなければならず、それを無視すれば、ことばの世界から退去を命じられます。そして論理の法則といえば何と言っても矛盾律です。矛盾律というのは「Aである、かつAではない(A∧~A)」と言うことを禁止するルールです。さて、「ここは穢土であり、かつ浄土である」というのは明らかにこの矛盾律に抵触します。「浄土である」というのは「穢土ではない」と同義ですから、これは「ここは穢土であり、かつ穢土ではない」となり、紛れもなく矛盾しています。
 しかし、本願に遇ったそのとき、「あゝ、ここは穢土に違いないが、もうすでに浄土にいる」と感じるのもまた紛れもない事実です。紛れもなく矛盾したことでありながら、でも紛れもなく事実であるということ。それを「こちらから」証明しようにも、端から矛盾したことですからどうしようもありませんが、でも「むこうから」否応なく真理として証明されてくるのです。ぼくらとしてはそれをただほれぼれといただくのみです。

                (第4回 完)

タグ:親鸞を読む
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