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本願の悠久の歴史 [「『正信偈』ふたたび」その53]

(3)本願の悠久の歴史

先回の終わりのところで「体」と「用」の話をしました。「ほとけのいのち」というのは、どこかにあるもの、すなわち「体」ではなく、われらの身の上に感じられる「用」、すなわち「はたらき」であると。したがってそれは「ちから」であり、万有引力がそうであるように、どこかにある何かではなく、ただ自分の身に感じられる「はたらき」であると。親鸞は「他力といふは如来の本願力なり」と言いますが(「行巻」)、このことばこそ弥陀の本願というものの本質をズバリと言ってくれています。弥陀の本願なるものがどこかにあるのではなく、それはわれらの身の上に生き生きとはたらいている本願力であるということです。

さて、ある人が自分の身の上に本願力がはたらいていると感じたとき、自分にはたらいているのが本願力であるとともに、そのことに気づかせたのもまた本願力でなければなりません。つまり本願力がはたらいていることを自分で気づけるわけではなく、本願力自身に気づかせてもらうしかありません。これが他力ということで、本願力そのものがはたらいていると同時に、本願力がはたらいていることに気づかせるのもまた本願力であるということです。ではその本願力という不思議なはたらきの気づきはどのようにしてやって来るかといいますと、本願力に気づいたどなたかからしかありません。本願力はそれに気づいた誰かとは別のどこかにあるのではなく、その人にはたらいているそこにしかないのですから。

弥陀の本願がここではないどこかにあるとしますと、その気づきもそこから直接与えられることになるでしょうが、本願はある人の身の上にはたらくところにしかありませんから、その気づきもその人を通じて与えられることになります。かくして本願は人から人へとリレーされていくかたちで伝えられていくのです。このことはわたしの信心はどなたかの信心からやってくるということであり、またわたしの信心はどなたかの信心となっていくということです。ここに往相と還相との切っても切れない関係を見て取ることができます。往相は往相で終わることなく、かならず還相となっていくということです。こうして本願は悠久の歴史をつくっていくことになります。


タグ:親鸞を読む
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