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浄土の荘厳 [『教行信証』精読2(その6)]

(6)浄土の荘厳

 さて、親鸞が言うように観音・勢至の来迎が臨終ではなく平生のことであるとしますと、「六神通を具し、自在をう」ることや「老病を除き、無常を離る」ことはどうでしょう。これらもまた真実の信心をえたそのときであるとしていいものでしょうか。いかに何でも天眼通や天耳通を得たり、老病から解放されるのが今生のことであるとするのは無理があると言わなければなりません。としますと「信心のさだまるとき往生またさだまる」という親鸞のスタンスからして、このあたりのことはどのように了解できるでしょう。
 この問題はここのことだけではありません。浄土の諸経典を読みますと、往生をした暁にどのような世界が目の前に広がるか、そのすばらしさがいやというほど展開されています(正直、退屈します)。それはもう文字通り「この世のものとは思えない」光景です。そこから、往生するというのは、穢土で過ごした今生が終わったのちに浄土へ往くことであるという固い信念がつくられることになります。さてしかし、ここで素朴な疑問が生まれます。死んだ先のことがどうして分かるのか、それはただ想像力を駆使してすばらしい世界を思い描いているだけではないのか、と。
 その通りと答えるしかありません。浄土の荘厳は物語です。そもそも浄土の教えはすべて物語のことばで語られています。宇宙の願いがかすかな信号として送られてくるのを傍受して、それをことばで語ろうとすると物語にならざるをえないということです。むかし法蔵菩薩が苦しみ悩んでいる一切衆生を救おうと思い、そのためにすばらしい浄土を建立してそこに迎え入れようと誓われた。それがめでたく成就し、法蔵菩薩はいま阿弥陀仏となられ安養浄土におわす、と。このように物語られますと、いま現にいる娑婆世界とはおよそ異なる浄土は、この世のいのちが尽きたのちに往くしかありません。
 さてしかし大事なことは、弥陀の本願というかたちで語られた物語は、あくまで宇宙の願いを伝えるための手立てであるということです。それをたよりとして宇宙の願いに気づくことが求められているのです。そして宇宙の願い(弥陀の本願)は、われらがそれに気づけば、そのときもうすでに成就しているのです。もう浄土はそこに現在しているのです、臨終をまつことはありません、来迎をたのむこともありません。

タグ:親鸞を読む
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