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方便化身の浄土なり [『浄土和讃』を読む(その78)]

(16)方便化身の浄土なり

 次の和讃です。

 「七宝講堂道場樹(しっぽうこうどうどうじょうじゅ) 方便化身の浄土なり 十方来生きはもなし 講堂道場礼すべし」(第35首)。
 「七つの宝でかざられる、浄土のすがた仮のもの。十方衆生往生す。阿弥陀如来に帰命せん」。

 もとの曇鸞の偈は浄土に来生した菩薩衆に阿弥陀仏が講堂で説法をするさまを経文に忠実にうたっています。和讃で「道場樹」というのは、仏がその下で悟りを開いた菩提樹のことです。また「講堂道場礼すべし」というときの講堂道場は阿弥陀仏そのひとを指しています。
 さて、注目すべきは、親鸞が七宝で荘厳された講堂や菩提樹について、さらりと「方便化身の浄土なり」と述べていることです。
 『無量寿経』において、方便化身の浄土については、いま話題となっている講堂や道場樹などの浄土の荘厳に関する記述のずっと先、もう終わりに近いところに出てきます。「もし衆生ありて、疑惑の心をもって、もろもろの功徳を修めて、かの国に生まれんと願わんに、…このもろもろの衆生、かの宮殿(くでん)に生るるも、寿五百歳、常に仏を見たてまつらず、経法を聞かず…このゆえに、かの国土において、これを胎生という」と。この記述と照らし合わせますと、いま取り上げられている箇所が方便化身土とはとても思えません。菩薩たちは七宝で荘厳された講堂で阿弥陀仏が説法しているのを聞いているのですから。
 ところが親鸞はこれを方便化身土であると言います。『教行信証』「化身土巻」でも、『無量寿経』から道場樹についての記述と胎生についてのこの記述を並べて引用し、方便化身土を説いたものであるとしているのです。そこからしますと、親鸞にとって、講堂や道場樹に限らす、経典に描かれている浄土の姿はすべて方便であり、仮の姿ということになるようです。

タグ:親鸞を読む
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