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結び目が消える [「親鸞とともに」その110]

(4)結び目が消える

「わたしのいのち」という網の結び目は、あらゆるいのちの無尽のつながりである「ほとけのいのち」(網そのもの)のなかに新たに生まれてきたことを見てきましたが、では、「わたしのいのち」が消えるとはどういうことでしょう。これまた言うまでもありません。無数にある網の結び目のひとつがなくなるということであり、それは先の例で言いますと、「わたし」という結び目を中心として形成されてきた父・母・弟・妹・妻・息子・娘との間のつながりがなくなるということです。しかしそれは「わたし」の家族のつながり、さらにはその外に広がるもっと大きなつながりそのものがなくなるということではありません。そのつながりのなかから「わたし」が消えるだけのことで、つながりそのものはこれまで通り続いていきます。

「わたし」が消えた後の家族のつながりを、たとえば「わたし」の弟を中心として考えますと、「わたし」と弟とのつながりは消えてしまいますが、弟とその父・母・妹・兄嫁・甥・姪とのそれぞれのつながりはそのまま残ります。そして今度は「わたし」の息子を中心として考えますと、「わたし」と息子とのつながりは消えてしまいますが、息子とその祖父・祖母・叔父・叔母・母・妹とのそれぞれのつながりはそのままです(この辺りは清沢満之の『宗教哲学骸骨』から示唆を得ています)。これはどういうことを意味しているかと言いますと、「わたしのいのち」が死んだとしても、「わたしのいのち」を生かしてきた「ほとけのいのち」はそのまま残るということです。

すぐ前のところで、「わたしのいのち」の根拠が「わたしのいのち」そのものにあるとき、「わたしのいのち」が死ぬことは、一切が無に帰すことだと言いました。そして世界は何ごともなかったかのように、これまで通りの歩みをつづけていき、自分独りが寂しくこの世界を去っていく。そのことが死の怖れの元凶ではないかと言いました(2)。としますと、いまの場合、「わたしのいのち」が死んでも「ほとけのいのち」はそのまま残るということも、同じように何とも怖いことではないでしょうか。

なるほどよく似ていますが、やはり両者は根本的に異なります。


タグ:親鸞を読む
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