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仏性とは本願の気づき [「信巻を読む(2)」その103]

(6)仏性とは本願の気づき

親鸞にとって仏性とは信心に他なりません。たとえば『唯信鈔文意』にはこうあります、「この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり」と。含蓄の深い文ですが、要するに本願の信心が仏性であるということです。親鸞としては信心が仏になる正因ですから、それは仏性と同じものです。そして信心とは本願の気づきのことです。本願がわれらの心にやってきて、その気づきとしての信心を生みだすのです。このように親鸞にとって仏性とは信心であり、そして信心とは本願の気づきですから、仏性とは本願の気づきに他なりません。

さてそうしますと先の仏性を巡る論争はどうなるでしょう。姉崎氏は「仏性は一切の衆生にあるから本願を信じることができる」といい、境野氏は「煩悩具足の凡夫には仏性がないから、そのようなもののために本願がある」というのですが、この論争は仏性を「どこかに客観的にあるもの」という前提の下でなされています。「仏性なるもの」が一切衆生にあるかどうかを巡って争っているのですが、親鸞にとって仏性とは信心に他ならず、それは本願の気づきですから、それがどこかに客観的にあるかどうかを議論するのはそもそも意味がないと言わなければなりません。信心(気づき)はある人にはあり、ない人にはない、ただそれだけです。

本文に戻りましょう。「阿闍世の為に涅槃に入らず」とは「仏性を見ることのない阿闍世のため」という意味だと述べた後で、「仏性を見るから大般涅槃に安住することができる。これが不生であり、だから阿闍世というのだ」とくるものですから戸惑いが生じたのでした。しかし、仏性とは「どこかにあるもの」ではなく、信心という「気づき」であるとしますと、その「気づき」がないと怨を起こして父王を殺害することになるが、「気づき」があれば、不生不滅の大般涅槃に安住することができることになり、何も矛盾したことを言っているのではないことが了解できます。


タグ:親鸞を読む
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