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すでに往生の旅のなか [はじめての『尊号真像銘文』(その53)]

(15)すでに往生の旅のなか

 信心が原因となり、往生という結果が生じるという言い方をしますと、それが「ただちに」であるとしても、その間にわずかではあっても時間が経過するようなイメージをもってしまいます。原因・結果ということばにそう思わせるものが含まれているのです。しかし信心と往生との間にはまったく隙間がありません。信心が起ったとき、それは取りも直さず往生がはじまることです。本願を信じるということが、そのまま往生がはじまるということで、別ではありません。
 あらためて信心とは何かと言いますと、本願にゲットされて、本願のひととなることでした。そして本願のひととなること、それが往生することに他なりません(正定聚不退です)。信心とは何か新しいものをつけ加えることではありません。すでにあった本願に気づくだけのことです、「もうとっくの昔からあったのか」と。往生もまた同じことで、これまでなかったことが新しくはじまるわけではありません。もうとっくの昔から往生の旅のなかにあったことに気づくだけのことです。
 ここはちょっと註が必要です。これまで「信心が起ったそのとき往生がはじまる」と言ってきたのに、ここにきて「信心が起ったとき、もうすでに往生ははじまっていた」というのはおかしいじゃないかと思われるでしょう。でもこれは同じことなのです。大事なところですので、くどいようですが往生とは何かをいまいちど確認しておきましょう。往生するとは正定聚不退の位につくことです。かならず仏となる身となることです。南無阿弥陀仏(帰っておいで)の声に染まり南無阿弥陀仏のひとになったそのとき、正定聚不退になるのであり、それが往生に他なりません。
 さて正定聚不退になるということは、すでに正定聚不退であることに気づくことに他なりません。これまで正定聚不退でなかった人が、あるとき突然、正定聚不退になるのではありません。もうとっくの昔から正定聚不退であったことに、あるとき突然、気づくのです。その意味では、信心が起ったとき、もう往生はもうとっくにはじまっているのです。しかし、それに気づいてはじめて正定聚不退になり、気づきませんと正定聚不退などどこにもありませんから、その意味では、信心が起ったそのとき往生がはじまるのです。

                (第3回 完)

タグ:親鸞を読む
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