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「ほとけのいのち」は「こえ」となって [「『正信偈』ふたたび」その84]

(5)「ほとけのいのち」は「こえ」となって

さて「ほとけのいのち」をこちらからゲットすることは不可であるとしますと、「ほとけのいのち」などというものはどこにもないという結論になるのでしょうか。ぼくの義兄は物理屋ですが、ある物理式の解が無限(∞)と出たら、その物理式のどこかに難点があると判断すると言います。これはつまりわれらはどうあがいても無限をゲットすることはできないということですが、しかしだからと言って無限が存在しないということにはならないでしょう。ここで物理と仏法は袂を分かつことになります。物理ではゲットできない無限をもはや問題としませんが、仏法では無限にゲットされること、無限がわれらにはたらきかけて不可思議な作用をしていることに目を向けます。無限がわれらにはたらきかける力をもっていることは、それを「知る」ことはできませんが、否応なく「感じられる」のです。そしてそれがわれらを救う。

「万善の自力」を勤修するというのは、「ほとけのいのち」をどうにかしてゲットしようとすることです。あるいはそれを「知ろう」と努めることです。それはしかし如何にしてもできない。源信の有名なことばに「われまたかの摂取のなかにあれども、煩悩、眼を障へて、見たてまつるあたはず」とあります(後の源信讃のところでほぼそのままの形で出てきます)。しかし、です、「大悲倦むことなくして、つねにわが身を照らしたまふ」のです。どうしてそう言うことができるのか。どうしても何も、そのことがわが身の上に否応なく「感じられる」のです。それが「円満の徳号」を聞くということです。第十八願成就文にある「その名号を聞きて信心歓喜せん」ということです。「ほとけのいのち」は名号の「こえ」となってわれらの身の上にはたらきかけ、それによってわれらは救われるのです。

「ほとけのいのち」は「万善の自力」によっては近づくことができませんが、「円満の徳号」の形をとって向こうからわれらのもとにやってくるのです。


タグ:親鸞を読む
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