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涅槃に入り、涅槃に入らず [「信巻を読む(2)」その132]

(9)涅槃に入り、涅槃に入らず

個々の「わたしのいのち」は「有量(ミタ)のいのち」であり、一方、「ほとけのいのち」は「無量(アミタ)のいのち」です。釈迦といえども一人の「わたしのいのち」ですから、その限りにおいて「有量のいのち」であり、いつか必ず涅槃に入ります(死のときを迎えます)。しかし釈迦はすでに「ほとけのいのち」ですから、その意味では「無量のいのち」であり、もはや涅槃に入ることはありません。もうすでに涅槃に入っているのですから、その上さらに涅槃に入ることはありません。かくして釈迦は「わたしのいのち」としては涅槃に入り、しかし同時に「ほとけのいのち」としては涅槃に入らないということになります。

いま釈迦について述べましたが、これはしかし釈迦だけのことではなく、信心の人すべてについて言えます。信心の人とは、「わたしのいのち」(それぞれの名札のついたいのち)を生きながら、そのまま同時に「ほとけのいのち」(いのちそのもの)を生きている人です。いや、「ほとけのいのち」が、その人の「わたしのいのち」を生きていると言うべきでしょう。ですから釈迦と同じく、信心の人は「わたしのいのち」としては、いつか必ず涅槃に入りますが、しかし「ほとけのいのち」としては、もはや涅槃に入らない(もうすでに涅槃に入っている)と言わなければなりません。因みに、信心のない人とは「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きていることにいまだ気づいていない人の謂いです。

釈迦が「阿闍世王の為に涅槃に入らず」と言うのは、それが「ほとけのいのち」としての永遠の慈悲だからであり、「三月を過ぎをはりて、われまさに涅槃すべき」と言うのは、「わたしのいのち」として生きる以上、それは何ともならない宿命だということです。そのように信心の人も「ほとけのいのち」としては涅槃に入ることなく還相の菩薩として生きますが、しかし同時に「わたしのいのち」としてはいつか必ず涅槃に入る宿命にあります。


タグ:親鸞を読む
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