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自立ということ [「親鸞とともに」その60]

(3)自立ということ

以上、劣等感=優越感が生まれてくる仕組みを見てきましたが、問題の根本には「わたしのいのち」を「わたしのちから」で生きなければならないというバイアスがあるということです。そこから「負けてたまるか」という思いが生まれ、優劣競争に負けたときには、相手に対する妬み、嫉みが生まれ、勝ったときには、相手を見下すことになるのです。としますと、もし「わたしのいのち」は「わたしのちから」によって生きなければならないというバイアスから抜け出れば、もはや他と優劣を比較することで劣等感も優越感も懐くことがなくなるということです。他より劣っていることが分かっても、「そうか、劣っているんだ」と平然としていられますし、反対に、他より優れていることが明らかになっても、「そうなんだ、優れているんだ」と思うだけのことです。

さて「わたしのいのち」は「わたしのちから」で生きているということは、個々の「わたしのいのち」はそれぞれに自立し、独立しているということに他なりません。もちろん、それぞれの「わたしのいのち」は自分一人で生きているわけではなく、他にたすけられてはじめて生きることができるのは言うまでもありません。その意味で「わたしのいのち」は「わたしのちから」だけで生きているのではありませんが、しかし他のたすけを得ることができるのも「わたしのちから」です。そういう点で、結局のところ「わたしのちから」で生きているのであり、これがそれぞれに自立して生きているということです。

このように「わたしのいのち」が自立しているということは、孤立していることではなく、他のいのちたちとの間につながりがありますが、その際、まず「わたしのいのち」があり、しかるのちに他のいのちたちとのつながりがあるという順序になります。まずAという「わたしのいのち」があり、そのABCDとのつながりをつくっていくということです。それはBという「わたしのいのち」においても同じで、まずBがあり、ACDとつながっていくのであり、以下同様です。


タグ:親鸞を読む
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