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宿業の気づきと誓願の気づき [正信偈と現代(その207)]

(6)宿業の気づきと誓願の気づき

 宿業がこんなふうに縦にも横にも果てしなくつながっているということは、ものすごい重圧を感じさせます。一切の有情の罪をわが罪とするのは耐えがたいことです。ところが、不思議なるかな、この「つながり」が救いとなるのです。先に「つながり」を感じることがそのまま救いであると言いました(1)。しかし「世々生々の父母兄弟」の罪をわが罪と感じることがどうして救いとなるのでしょう。それはむしろ救いのなさをあらわしているのではないでしょうか。
 ここでまた光と闇の話をしなければなりません。光を光と気づくためには闇がなくてはならず、闇を闇と気づくあるためには光がなくてはならないということです。辺りいちめん光ばかりで闇がありませんと、光を光と気づくことができません。それは光でも闇でもない、ただのノッペラボーです。また辺りいちめん闇ばかりで光がありませんと、それを闇と気づくことができません、これまた闇でも光でもないノッペラボーです。
 宿業を宿業と気づくとき、すでに弥陀の光明にも気づいているということです。「曠劫よりこのかた」の己れの罪だけでなく、「世々生々の父母兄弟」のあらゆる罪を己れの罪と感じるとき、同時に、そうした罪を背負ってくれる存在を感じています。「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」の誓いが聞こえています。逆に言いますと、この誓いが聞こえなければ、宿業を感じることもありません。そこは誓願の光も宿業の闇もない、ただノッペラボーの世界です。
 宿業は罪の「つながり」ですが、誓願は救いの「つながり」です。罪の「つながり」を感じることが、取りも直さず救いの「つながり」を感じることであるということ、これを善導は機の深信と法の深信ということばで言い表してくれました。やはり「つながり」を感じることがそのまま救いであるのです。

タグ:親鸞を読む
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