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自灯明、法灯明 [『ふりむけば他力』(その74)]

(13)自灯明、法灯明

 いかがでしょう、カント哲学と仏教の意外な親縁性を感じていただけたでしょうか。カントは実体としての「わたし」はあるとも言えないし、ないとも言えないとし、釈迦もまたマールンクヤの「わたし」は死後も存在するかの問いに沈黙で応えました(これを無記と言います)。両者は非常に近いところにいると言えるのではないでしょうか。ただ、カントは実体としての「わたし」を認識の対象としては理性の限界を超えているとする一方で、これを実践の領域で救い出します。テーマから外れますので、ここで詳しく論じることはできませんが、道徳的実践の主体としての「わたし」を前面に打ち出してくるのです。カントの印象的なことばとして、「わたしは知識を捨てて信仰に場所を明けねばならなかった」とあります。
 一方、仏教は常住不変の「わたし」はあくまでも仮構されたものにすぎず、にもかかわらずそれが実在するかの如くに囚われることからあらゆる苦しみが生まれると一貫して説きます。
 この点で両者は袂を分かつのですが、ここで気になることについてひと言しておかなければなりません。釈迦は「わたしへの囚われ」を説く一方で、「わたし」を大切にせよと説きます。釈迦の最後の説法として「自灯明、法灯明」はよく知られているでしょう。釈迦は死を前にして、アーナンダにこう言うのです、「それゆえに、この世でみずからを島として、みずからをたよりとして、他のものをたよりとせず、法を島とし、法をよりどころとして、他のものをよりどころとするな」(この「島」が分かりにくいことから、漢訳の仏典ではそれを「灯明」としていますが、インドではガンジスなどの大河が増水しますと辺り一面海のようになり、そんな時水没せずに残る砂洲が大いなる拠り所となります)。
 それ以外にも釈迦は初期経典においてしばしば「自己」の大切さを説いています。たとえば「実に自己は自分の主である。自己は自分の帰趨(よるべ)である。ゆえに自分をととのえよ。商人が良い馬を調教するように」(『ダンマパダ』)と。あるいは「この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして(自分の)主であろうか。賢者は、自分の身をよくととのえて、ニルヴァーナ(涅槃)の近くにある」(『ウダーナヴァルガ』)と。これらのことばを無我との関係でどのように理解すればいいのでしょうか、これを考えておきたいと思います。

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