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著者は誰? [『歎異抄』を聞く(その4)]

(4)著者は誰?

 さて、ではこの書物を書いたのは誰でしょう。どの写本にも(原本は失われ、何種類かの古写本が残されているだけですが、中でもっとも古いのが蓮如本です)著者名がなく、さまざまに推測されてきたようですが、先入見を持たずに素直に読めば、本文中に二か所(第9章と第13章)名前が出てくる唯円が著者であることは明らかです。如信(親鸞の孫、善鸞の子、本願寺の第2代とされる)や覚如(親鸞のひ孫、おなじく第3代)とするのはどうにも無理があると言わなければなりません。
 中序に「かの御在生のむかし、おなじこゝろざしにして、あゆみを遼遠の洛陽にはげまし」とあることから、著者は京の親鸞から教えを受けるために関東よりはるばるやってきた弟子であることが窺えますし、第2章にも「をのをの十余ケ国のさかひをこえて、身命をかへりみずして、たづねきたらしめたまふ御こころざし」とあり、著者もその中にいたのは間違いないでしょう。ここからして、著者は関東在住の直弟子であり、如信や覚如でないことは明らかです。
 さてでは唯円とはどんな人でしょう。常陸の国、河和田(かわだ、現在の水戸市)の人で、『伝絵』や『消息集』にその名が出る大部の平太郎(消息には中太郎)の弟・平次郎であるとされます。1222年に生まれ、1289年頃に亡くなったと言われますから、若くして兄の影響を受け親鸞の門に入ったと思われます。(因みに、親鸞は越後流罪を許された後も京に戻らず、常陸に新しい居住地を求めて移動しますが、それが1214年、親鸞42歳の頃です。そして1232年、60歳の頃に京に戻ります。そして亡くなるのが1262年、90歳のときです。)
 ではこの書物が成立したのはいつごろか。後序に「露命わづかに枯草の身にかかりてさふらふほどに、…閉眼ののちは、さこそしどけなきことどもにてさふらはんずらめと(さぞや誤った考えが入り乱れることと)、なげき存じさふらひて」とありますから、唯円の最晩年であろうと思われます。としますと、親鸞が亡くなって20数年後ということになります。

タグ:親鸞を読む
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