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「たまたま」再論 [「親鸞とともに」その96]

(10)「たまたま」再論

本願成就文における願生と得生は同時因果であることを見てきました。そしてそのときの願生は「われら」の願生である前に「如来」の願生であるということでした。「われら」の願生が第一起点となるときは、願生と得生は「原因と結果」の関係、すなわち異時因果となりますが、「如来」の願生が先んじるとき、それは「縁起」の関係、すなわち同時因果となります。これは何を意味するかといいますと、「原因と結果」の関係は自力の世界のことで、「縁起」の関係は他力の世界のことであるということです。自力の世界とは「われら」のはからいで成り立っている世界であり、他力の世界といいますのは「如来」のはからいで成り立っている世界です。

ここで「たまたま」についてあらためて考えておきましょう。前に、原因・結果のつながりは「かならず」であるのに対して、縁起のつながりは「たまたま」であると述べました(2,3)。この「かならず」と「たまたま」について、「かならず」は必然性で、「たまたま」は偶然性だから、両者は反対であるとされますが、ここは注意が必要です。必然性(かならず)の反対は蓋然性(かもしれない)です。そして必然性(かならず)は偶然性(たまたま)とは矛盾しません。ぼくと妻のつながりは偶然(たまたま)の出会いによりますが、しかしそこに必然性(かならず)がないとはいえません。「たまたま」出会いましたが、でも「そうなるべくして」会った(赤い糸です)と見ることもできます。あるいは、ぼくは「たまたま」日本人に生まれましたが、でも日本人に生まれるべくして生まれたとも言えます。

さて原因と結果のつながりは「かならず」であり、もしそれが「かもしれない」にすぎないのであれば、そこに原因・結果のつながりはないと言わなければなりません(少なくともそこに原因・結果概念の実践的有効性はありません)。それでは、それに対する縁起のつながりは「たまたま」であるということはどういうことでしょう。ここに他力が重要な意味をもって立ちあらわれてきます。原因・結果の世界は自力の世界すなわち「われら」のはからいにより成り立つ世界であるのに対して、縁起の世界は他力の世界すなわち「如来」のはからいにより成り立つ世界であり、そこは「たまたま」の世界であるということです。


タグ:親鸞を読む
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