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ただ親鸞一人がため [『唯信鈔文意』を読む(その8)]

(8)ただ親鸞一人がため

 ここまできて「みんなのため」と「親鸞一人がため」に戻ることができます。
 親鸞も法然から本願をリレーされました。比叡山を下りて六角堂に籠った親鸞は不思議な夢をみたと伝えられます。そしてそれに促されるように吉水の法然を訪ねたのでした。親鸞二十九歳のことです。そのとき本願は確かに法然から親鸞へリレーされた。そして本願は「親鸞一人がため」にあると思われたのです。
 永遠の本願は、今の一瞬にしかないように、「みんなのため」の本願は「親鸞一人がため」にしかない。永遠は一瞬の中にしかないように、普遍は個別の中にしかないという不思議。普遍と個別は対立するものではありません、それどころか、個別以外のどこを探しても普遍は見つからないのです。
 これはしかし常識とはどうにもうまくあいそうにありません。普通に考えて「みんなのため」にあるものは、誰か「ひとりのため」にあるのではないからです。「みんなのため」にあるものを「自分ひとりのため」に私物化されるのは困ります。図書館の本のページを切り取ってしまう人がいるそうですが、こんなことをされるのはまことに迷惑です。  
 こんな場合の「みんなのため」と「自分ひとりのため」の対は、先の「みんなのため」と「親鸞一人がため」の対とどう違うのでしょう。形あるものと形ないものという違いでしょうか。形あるものの場合は「みんなのため」と「自分ひとりのため」は対立するが、形ないものの場合は対立しない、のでしょうか。
 そうとは言えないようです。たとえば愛には形がありませんが、「みんなのため」の愛と「自分ひとりのため」の愛は対立するのが普通です。子どもは母親の愛を「自分ひとりのため」にとっておきたいと思うものです。ましてや恋する人は相手の愛が「みんなのため」に向けられるのは願い下げでしょう。それは愛を「わがもの」としようとするからです。


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