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悪人成仏のため [『歎異抄』ふたたび(その38)]

(5)悪人成仏のため

 ここまできまして、「善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや」とは、善人と悪人を対比して、善人よりも悪人の方が救われるということではないことがよりはっきりしてきました。こちらに善人がいて、あちらに悪人がいるのではありません、一人の例外もなくみな一様に悪人です。「煩悩具足のわれら」であることにおいて、みな横一線であるということ。ここで善人と言われているのは、自分が悪人であることに気づいていない悪人であり、悪人とはそれに気づいている悪人です。で、この文は、自分が悪人であることに気づいてはじめて往生できると言っているのです。
 「自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず」といいますのは、自力作善のひとは、自分が悪人であることに気づいていないので往生できないと言っているのです。「しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり」というのは、自分は悪人であることに気づいていない自力作善のひとも、それに気づきさえすれば(「自力のこころをひるがへす」とはその意味です)往生できると言っているのです。
 さて問題は、どうして自分が悪人であることに気づいてはじめて往生できるのかということです。「願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば」と言われますが、この「悪人成仏のため」も、こちらに悪人、あちらに善人がいて、悪人だけが救われるということではなく、みな一様に悪人であるなかで、それに気づいているものと気づいていないものがいるが、それに気づいているものが救われるということです。しかしどうして自分は悪人であると気づくことで救われるのか、これが問題です。
 ここで参照したいのが善導の二種深信です。彼はこう言います、信心といえば「弥陀の本願は一切衆生を救ってくださる」と信じることだが、しかし、これにはかならずもうひとつの面があり、それは「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなし」(『観経疏』散善義)と信じることだと。ひとつは「一切衆生が救われる」と信じること(これを法の深信と言います)、もうひとつは「わたしのような罪悪深重の凡夫は救われるはずがない」と信じることで(これを機の深信と言います)、このふたつがコインの表と裏のように切り離すことができないというのです。

タグ:親鸞を読む
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