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囚われの気づき [『歎異抄』ふたたび(その40)]

(7)囚われの気づき

 では滅諦とは何かといいますと、煩悩が苦しみの元であることに気づくことで、涅槃への道に立つことができるということです。涅槃そのものはこれから先のことですが、そこに至る道に入ることができるのです。
 かならず涅槃に至ることを龍樹は「必定に入る」と言い「不退転(阿毘跋致)の位につく」と言いますが、滅諦とは、苦しみの元としての煩悩に気づくことで、必定に入り、不退転の位につくということです。親鸞は、必定に入ること、不退転の位につくことが正定聚となることであり、それが取りも直さず往生することであると考えますから、己の煩悩に気づくこと、すなわち己が悪人であると気づくことと往生することがひとつであるということになります。
 四諦説において己の煩悩が苦しみの元であることに気づいてはじめて涅槃への道に入ることができるということが確認できましたが、しかし煩悩に気づくことが取りも直さず往生することであるということがいまひとつはっきりしないと言われるかもしれません。そこで繰り返しになることを厭わず、煩悩とは「われへの囚われ」あるいは「わがものへの囚われ」であることに戻り、それに気づくことがどうして救われることになるのかを確認しておきたいと思います。
 どんなことであれ、あることにこころが囚われているとき、それに気づくことはもう囚われから抜け出たことを意味します。「あっ、これはこころが囚われているのだ」と気づいたときには、もう囚われていません。それは夢を考えるとよく分かります。夢のなかにいる人は、それが夢だとは露ほども思っていません。それが唯一のリアルな世界です。そして「あっ、これは夢か」と気づいたときには、その人はもう夢から覚めています。「われへの囚われ」の場合も同じで、そのなかにいる人にとって、それが現実そのものですが、「あっ、これは囚われているのか」と気づいたときは、もうその囚われから抜け出ています。

タグ:親鸞を読む
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