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上人のわたらせたまはんところには [『歎異抄』ふたたび(その50)]

(7)上人のわたらせたまはんところには

 そのとき法然は親鸞に向かって「生死出づべき道をば、ただ一すじに仰せられ」(同)たことでしょう。自分が救われたこの教えを何とかしてこの若者に伝えたいという「自信教人信」の思いにあふれていたに違いありません。その思いが通じ、親鸞は「上人のわたらせたまはんところには、人はいかにも申せ、たとひ悪道にわたらせたまふべしと申すとも」ついて行こうと思うに至るのです。これは『歎異抄』第2章の「たとひ法然聖人にすかされまゐらせて、念仏して地獄におちたりとも、さらに後悔すべからず候ふ」とぴったり重なります(おそらく親鸞は自分の信心の根っ子にあるものとして、この話をいろいろな機会に語っていたと思われます)。
 こんな思いが生まれてくるのはどういうことでしょう。これは師・法然に対する確固不抜の信に違いありませんが、そんな信がどこから生まれてきたのかを考えなければなりません。親鸞を「教えて信ぜし」めようとしたのが法然であるのは紛れもないことですが、しかしほんとうに親鸞をして信ぜしめたのは如来の本願力であるということです。これはすでに(第3回で)考えてきたことですが、親鸞に語りかけたのは法然に違いなくても、その法然のことばを通して、そのことばの中から、如来の「帰っておいで」という声が聞こえてきたからこそ、親鸞は法然にたとえ地獄であろうとついて行こうとしたのです。
 法然にとって「自信」(往相)は「教人信」(還相)とひとつであり、どちらも如来の本願力回向であることを見てきました。この辺りで第4章の本文に戻り、一読して感じられる違和感についてあらためて考えてみましょう。いちばん焦点になるのは「今生に、いかにいとほし不便とおもふとも、存知のごとくたすけがたければ」という文言だろうと思われます。今生では思うように衆生利益することができない、だから「念仏して、いそぎ仏に成りて、大慈大悲心をもつて、おもふがごとく衆生を利益する」のが「すゑとほりたる大慈悲心にて候ふ」というところです。これをどう了解すればいいのでしょう。

タグ:親鸞を読む
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