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7月24日(日) [矛盾について(その355)]

 善きサマリア人の話を思い出します。イエスが次のように問うのです、「ある人がエルサレムからエリコに下っていく途中、強盗どもが彼を襲い、その着物をはぎとり、傷を負わせ、半殺しにしたまま、逃げ去った。するとたまたま、ひとりの祭司がその道を下ってきたが、彼を見ると、向こう側を通って行った。同様に、レビ人(祭司の下働きをする階級)もこの場所にさしかかってきたが、彼を見ると向こう側を通って行った。ところが、あるサマリア人(ユダヤ人から卑しめられていた人たち)が旅をしてこの人のところを通りかかり、彼を見て気の毒に思い、近寄ってきてその傷にオリーブ油とぶどう酒とを注いでほうたいをしてやり、自分の家畜に乗せ、宿屋に連れて行って介抱した。翌日、デナリ(当時の銀貨)二つを取り出して宿屋の主人に手渡し、『この人を見てやってください。費用がよけいにかかったら、帰りがけに、わたしが支払います』と言った。この三人のうち、だれが強盗に襲われた人の隣り人になったと思うか」と(『ルカ伝』第10章)。
 3.11以後、東北の被災地で善きサマリア人の姿をたくさん見ることができました。大津波ですべてを失くしてしまった人たちを「あはれみ、かなしみ、はぐく」もうとするその人たちの姿はこころを打ちます。その人たちこそイエスの言う「隣り人」です。ぼくも「隣り人」になりたい。そしてもしぼくに十分な財力があれば、被災されたどなたかのお世話をすることができるかもしれません。着るものと住む家と食べ物を用意することはできるかもしれません。でも、して差し上げることができるのはここまでです。衣食住についてはぼくの力の及ぶ最大限の助力をして差し上げることができるでしょうが、しかしその方にとってもっとも大事なことはどうでしょう。
 もっとも大事なこととは「なぜあの人が死んで、私が生き残ったのか」という問いです。「このまま生きていていいのか」という棘。

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