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「ねがい」と「こえ」 [『教行信証』「信巻」を読む(その3)]

(3)「ねがい」と「こえ」


 弥陀の本願の力によりわれらに信心が発起することを見てきましたが、二つ目に「真心を開闡することは、大聖矜哀の善巧より顕彰せり」ということ、釈迦の善巧方便がなければこれまたわれらの信心はないということについて考えなければなりません。


本願の力(本願力)と言いましても、何か摩訶不思議な力がわれらに直接はたらきかけるわけではありません。そもそも本願とは何かという原点に戻りますと、あらゆるいのちにかけられている「本の願い」(「本願」のもとの梵語は「プールヴァ・プラニダーナ」と言い、それは「本の願い」という意味で、どんな過去よりもっと過去からある願いということです)で、それは信時淳氏の本のタイトルをお借りしますと、「いのち、みな生きらるべし」という願いです。さてしかし、どんな願いもそれが願いとしてあるだけでは力になりません。親がどれほどわが子の幸せを切実に願っても、それだけでは力にならず、その願いが何らかの形で子のもとに届かなければなりません。


そのように「いのち、みな生きらるべし」という願いも、あらゆるいのちに伝わらなければ力となることができませんが、さてでは本願はどのようにしてあらゆるいのちに伝わるのでしょう。一般に「ねがい」が相手に伝わるためには、それが「こえ」となって届けられなければなりません。本願という「ねがい」もまた「こえ」となってあらゆるいのちに届けられなければなりませんが、それが「南無阿弥陀仏」という名号です。あらためて確認しておきたいと思いますが、「南無阿弥陀仏」とはたんなる名前ではありません、「わたしは阿弥陀仏に帰命いたします」という「こえ」です。この「こえ」はさし当たってはわれらが発しますが、さてしかしこれをわれらが発するのは、それに先立ってどこかからこの「こえ」が聞こえてきたからです。


ジャック・デリダという哲学者は「あらゆる発信は受信である」と言います。われらが誰かに電話して「アロー(ハロー)」と発信するのは、それに先立って「アロー」という「こえ」を心に受信しているからだというのです。むこうからやってくる「アロー」という「こえ」にこだまするように、こちらから「アロー」という「こえ」を発信するということです。同じようにわれらが「南無阿弥陀仏」という「こえ」を発するのは、それより前に「南無阿弥陀仏」という「こえ」が聞こえているからです。聞名があってそれにこだまするように称名するということです。



タグ:親鸞を読む
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