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信力うたた増上し [『教行信証』精読(その93)]

(6)信力うたた増上し

 仏の「しるし」があらわれていることに気づくこと、あるいは「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」を生きていると気づくこと、これが「信ずる」ことに他なりませんが、これはただ一たびのことで、二度も三度もあることではありません。「信楽開発の時剋の極促」(「信巻」)と親鸞がよぶ不思議な一瞬で、これが必定に入るということ、正定聚となるということです。善導のことばでは「前念命終、後念即生(前念に命終して、後念にすなはち生ず)」で、これまでの古いいのちが終わり、新しいいのちがはじまります。
 このように、信はあるか、さもなくばないか、気づきがあるか、もしくはないか、そのどちらかですが、しかしそれは、信をえた後にその信が増していくことと矛盾するわけではありません。増すというより、深まるという方がいいかもしれません。「わたしのいのち」を「ほとけのいのち」と感じる、その感受性が深まっていくように思えるのです。「ほとけのいのち」の味わいが深まるというべきでしょうか。親鸞は「信心さだまるとき、往生またさだまる」(『末燈鈔』第1通)と言いますが、これは「信心はじまるとき、往生またはじまる」と言いかえることができます。信心はあるときはじまり、それが往生の旅のはじまりに他なりません。その旅のなかで信心は次第に深まっていくのです。
 男と女の愛を考えてみますと、愛もあるときはじまります。そして愛の旅(結婚生活)のなかでさまざまなことがおこり、それをもとにして愛はおのずから深まっていくでしょう。はじまりのときの燃えるような激しさは影を潜めるでしょうが、その味わいは深みを増していくに違いありません。そのように信心も「信楽開発の時剋の極促」の歓喜踊躍はいつしかおさまりますが、往生の旅のなかでさまざまな経験を重ねることによって、その味わいにコクと旨みが加わっていきます。そして、愛の旅はその途中で突然たち切られることがありますが、往生の旅は深まりこそすれ途中で終わりを告げることはありません。本願・名号に遇うことで、新しいいのちがはじまった以上、もう古いいのちに戻ることはありません。それが不退ということです。

タグ:親鸞を読む
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