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死者はみな仏 [『一念多念文意』を読む(その99)]

(7)死者はみな仏

 生きているわれらはどうしようもなく「われ」に囚われ、「わがもの」に執着しています。しかしそのことに気づかせてもらうことで、不思議なるかな、そうした囚われや執着から離れたにひとしくなる、仏にひとしくなる。実際にそこから離れ、仏となるのは死んだあとのことでしょう。
 いや、自分が死んだあとどうなるかは分かりません。そこに踏み込むことは釈尊の「無記」に背くことです。確かなことは、われらがどうしようもなく「われ」に囚われていることに気づかせてもらい、その結果、そこから離れたにひとしくしてもらえるのが過去仏の声だということです。そして過去仏とは死者です。
 自分が死んだあとどうなるかは分かりません。ひょっとしたら、まったき「無」かもしれません。でも死んだ人が(父が、母が、親友がetc.)死んだ人として存在することは紛れもない事実です。繰り返しになりますが、現在存在としてではありません、過去存在として存在するのです。その死者たちを仏とみることはできないか。
 きっと、こんな疑問があると思います。「地獄に行く人もいるんじゃないか、それを死んだらみんな仏になるというのはどうも」という気持ちです。
 例外なくみんなが仏になることへの抵抗感ですが、ことは「本願を信じ念仏をまうさば仏になる」(『歎異抄』第12章)という教えをどう見るかにかかわってきます。これは本願を信じ念仏する人だけが仏になるということでしょうか。普通はそう解釈されます。もし信心や念仏に関係なく、みんなが仏になるのなら、信心や念仏は何なのかという深刻な疑問が生じるからです。そこから死んだらみんな仏になるということへの抵抗が生まれてくると思われます。

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