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志願をみてたまふ [はじめての『高僧和讃』(その90)]

(10)志願をみてたまふ

 病気になりませんよう、とか、長生きできますよう、などの願いは「わたしのいのち」の願いとして切実なものです。わたしにはそんな願いはありません、と言い切れる人はいるでしょうか。少なくともぼくのこころのなかにはこのような願いがあります。でも同時に、このような願いは自分勝手な願いであるとも感じます。それらとはまったく別種の願いがあることに気づくからです。それが「ほとけのいのち」の願いで、法蔵の「若不生者、不取正覚(もし生まれずば、正覚をとらじ)」の願い、「われ人ともに救われん」という願い、「みんなが救われてはじめて自分も救われよう」という願いです。
 この願いはしかし「わたしのいのち」の願いとは別にあるのではありません、「わたしのいのち」の願いと裏表にぴったり貼りあわされていると感じるのです。そして、このように「わたしのいのち」の願いの裏に「ほとけのいのち」の願いがあることに気づかされたとき、その願いはもう満たされていると感じます。「願生彼国、即得往生、住不退転(かの国に生まれんと願ずれば、すなはち往生をえ、不退転に住す)」(本願成就文)とはそういうことです。
 「わたしのいのち」の願いは、願ったからといって、そのままかなうものではありません。どれほど願ってもかなわないことはいくらでもあります。でも「ほとけのいのち」の願いはかならずかなうのです。いや、こう言うべきでしょう。「ほとけのいのち」の願いがあることに気づいたとき、同時にその願いはもうすでにかなえられていると気づくのだと。どうしてそんなことが言えるのかといいますと、「われ人ともに救われん」という願いは、生きとし生けるすべてのいのちたちに願われていることに気づくからです。生きとし生けるものたちすべてに願われているということは、それはもうすでにかなえられているということではないでしょうか。

タグ:親鸞を読む
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