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弘誓に値(もうあ)ひぬれば [「『正信偈』ふたたび」その88]

(9)弘誓に値(もうあ)ひぬれば

「一生悪を造れども、弘誓に値ひぬれば」と言われていますが、実際のところ「弘誓に値ふ」ことができたからこそ「一生悪を造れども」と言うことができるのです。もし「弘誓に値ふ」ことができていなければ、「わたしは一生悪を造りつづけるしかない人間です」ということばは出てきません。「わたしは一生悪を造りつづけるしかない人間です」ということばや、先の善導の「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して出離の縁あることなし」ということばは、ちょっと見たところでは弱音を吐いているように聞こえるかもしれませんが、実際はものすごく強いことばです。ほんとうに強い人が言えることばです。そしてその強さは「弘誓に値ふ」ことができたことから生まれます。

次の善導讃を先取りすることになるかもしれませんが、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と信じることは「機の深信」とよばれます。そして「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じることが「法の深信」とよばれます。大事なことはこの二つはコインの表と裏のように切り離すことができないということです。すなわち「機の深信」があれば、かならず「法の深信」があり、「法の深信」があれば、かならず「機の深信」があるという関係にあります。それは何故かと言いますと、真実の信心とは「ほとけの心」が「われらの心」にやってきて、ひとつになっていること(これが「一心」です)であるからです。したがって「わたしの心」を信じることは「ほとけの心」を信じることと別ではないということになります。

そうしますと、「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫」と信じるということは、取りも直さず「かの願力に乗じて、さだめて往生を得」と信じていることであり、このように「弘願に値ふ」ことができたからこそ、変な言い回しに聞こえるかもしれませんが、胸を張って堂々と「わたしは一生悪を造りつづけるしかない人間です」と言えるのです。このことばはほんものの自信(自身の信)から出てきたことばです。

(第9回 完)


タグ:親鸞を読む
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