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諸仏方便ときいたり [親鸞の和讃に親しむ(その78)]

(8)諸仏方便ときいたり

諸仏方便ときいたり 源空ひじりとしめしつつ 無上の信心をしへてぞ 涅槃のかどをばひらきけり(第108首)

諸仏の手立てととのって、源空ひじりとあらわれる、無上の信をおしえては、涅槃の門をひらきたり。

親鸞は「ときいたる」という表現を好んでもちいます。縁のあらわれる時が熟したということで、真っ先に頭に浮ぶのが『教行信証』序の「ああ、弘誓の強縁、多生にも値(もうあ)ひがたく、真実の浄信、億劫にも獲がたし。たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ」という一節です。「弘誓の強縁」はずっと前からあったのですが、それが実際にあらわれ、われらがそれに遇うことができるには、その時が熟す必要があるということです。そしてその時が熟し、それに遇うことができてはじめて、ああ、こんな縁があったのだと思い至るのです。これが「たまたま」ということばで表されています。この和讃では、弘誓の強縁があらわれる時が熟して、源空が「ひじり」として目の前に姿を見せてくださったと慶んでいるのです。

さて「無上を信心をしへてぞ 涅槃のかどをばひらきけり」ですが、これは『選択集』の三心章に「生死の家には疑をもつて所止となし、涅槃の城には信をもつて能入となす」とあるのによっています。親鸞はこれを「正信偈」に「生死輪転の家に還来(かえ)ることは、決するに疑情をもつて所止とす。すみやかに寂静無為の楽(みやこ)に入ることは、かならず信心をもつて能入とす」と詠っています。弘誓の強縁に遇うことが、信心を得ることに他なりませんが、そのときに「涅槃のかど」がひらけるというのです。もしその縁に遇うことができませんと、いつまでも「生死の家」にとどまるしかありません。

この「涅槃のかど(門)」という言い回しは、曇鸞讃の中にも出てきましたが(第22首)、弘誓の強縁に遇うことができたとき、涅槃そのものがひらくのではありません、涅槃のかどがひらくのです。涅槃そのものがひらくのは「わたしのいのち」が「わたしのいのち」でなくなったときですが、弘誓の強縁に遇うことができても「わたしのいのち」はそのままです。でも「わたしのいのち」のままで「ほとけのいのち」の中で生かされていることに気づくのです。これが「涅槃のかどをばひらきけり」ということです。


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