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証をえても行は終わらない [はじめての『尊号真像銘文』(その93)]

(12)証をえても行は終わらない

 坐禅の修行をして悟りをひらけば、それで「上がり」であるかのように思うのと同じように、本願に遇うことができ正定聚となれば、あとは臨終を待つだけとしますと、その人生は隠居老人の余生のようなものになってしまいます。これでは「まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふ」という護念増上縁も虚しいと言わなければなりません。しかし、悟りがひらけても修行が終わりになるわけではないように、本願に遇い正定聚となってもそれで人生が終わるわけではなく、それからがほんとうの人生のはじまりです。そのような人生を歩む人を「照らして摂護して捨てたまはず」ということであってこそ護念増上縁に意味がうまれてきます。
 『スッタニパータ』冒頭の一文にもどりますと、「蛇の毒がひろがるのを薬で制するように、怒りが起ったのを制する修行者」は、すでに「怒り」こそ苦しみのもとであることに気づいています。苦しみの正体が怒りという煩悩であることに気づくことは、まだその気づきに至らなかった頃からしますと、大いなる一歩を歩みだしたということです。それまでは人間がさまざまな怒りをもつのは当たり前のことであり、むしろ怒りこそ生活をよりよくしていく原動力だと思っていたのですが、怒りは煩悩であり、それが諸悪の根源であると気づいたのです。
 苦しみの正体に気づくことは、すでに苦しみの根を断ち切ることです。これが浄土の教えで言えば正定聚不退であり、往生のはじまりです。しかし根が断ち切られたからといって、苦しみがきれいさっぱり消えてしまうわけでないのは、切り花は根がきられていても、きれいに咲き続けるようなものです。怒りという煩悩に気づくことで、怒りは一旦は終息しますが、少しするとまた別の怒りがムラムラと起こってきます。「やれやれ、また煩悩が」と仕切り直しです。こんなふうに煩悩の気づきをえたからといって、煩悩がきれいに消えてしまうのではなく、煩悩とのつきあいはそれからも続きます。気づきという証をえたからといって修行が終わるわけではありません。だからこそ「まことの心をえたる人を、このよにてつねにまもりたまふ」ことが何とも有り難いのです。

タグ:親鸞を読む
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