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プラサーダ [はじめての『高僧和讃』(その74)]

(17)プラサーダ

 では「他力の信」とは何か。「如来回向の信心」とか「賜りたる信心」ということばには、どうにもストンと肚に落ちない感じがつきまといます。信心とはこころのありようを指しますが、それが与えられると言われますと、何かこころが操られているような気がして落ち着かないのです。そこで信ということばの元である「プラサーダ」に戻り、改めて「他力の信」とは何かを考えてみましょう。第18願に「至心に信楽し」とありますが、「信楽」と訳されているのが「プラサーダ」で、濁っていたこころが澄むという意味です。
 この「濁っていたこころが澄む」ということを分かりやすく示してくれるのが「夢から覚める」という経験ではないでしょうか。
 もう教師を辞めて10年も経つというのに、教師時代の悪夢をしばしば見ます。教師生活で楽しいこともたくさんあったはずなのに、どういう因果か、見る夢は苦しいものばかりです。たとえば、さて授業だと職員室を出て教室に向かうのですが、いつまでも目指す教室に行きつけないという夢。あゝ、どんどん時間が過ぎていくという焦りや、教室ではぼくが来ないのをいいことに生徒たちがどんちゃん騒ぎをしているのではないかという不安でこころは暗たんとしています。
 ところが突然その夢から覚め、「あゝ、よかった、夢だった」と安堵する。これまで濁りきっていたこころがサアーっと澄むのです。これは自分でそうしようと思ってできることではありません。そもそも夢のなかにいるとき、これが夢だとは思いませんから、夢から覚めたいなどと思うこともありません。あるとき突然覚めるのです、そして「あゝ、夢だった」と思う。「プラサーダ」とはこのような経験ではないでしょうか。これまで濁りきっていたこころが、あるときサアーっと澄む。そのとき「こころが澄んだ」と感じるのですが、同時に「これまではこころが濁っていた」と気づくのです。澄んではじめて濁っていたことに気づく。

タグ:親鸞を読む
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