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恩徳広大釈迦如来 [親鸞の和讃に親しむ(その24)]

(4)恩徳広大釈迦如来(これより観経讃)

恩徳広大釈迦如来 韋提夫人(いだいぶにん、韋提希)に勅してぞ 光台現国(こうだいげんごく)のそのなかに 安養世界をえらばしむ(第73首)

釈迦のご恩ははてもなく、韋提夫人に勅命し、ひかりの台にあらわして、弥陀の浄土をえらばせる

『観経』の序分において、王舎城の悲劇のなかで釈迦が韋提希に阿弥陀仏とその浄土を説くに至る経緯を詠っています。わが子・阿闍世が父を殺し、自身もまた幽閉されるという逆境を「世尊、われむかし、なんの罪ありてか、この悪子を生ずる」と嘆き、「わがために憂悩なき処を説きたまへ」と願う韋提希に、釈迦は眉間より金色の光を放ち、その光の台に十方諸仏の浄土を映し出します。韋提希はそのなかから阿弥陀仏の浄土を選ぶのです。釈迦は微笑み、「なんぢいま、知れりやいなや。阿弥陀仏、ここを去ること遠からず」と説きはじめます。

『大経』の序分と比べますと(第51首参照)、ドラマチックな場面設定がいやがうえにも印象に残ります。

ここで「悟りの仏教」と「救いの仏教」を対比してみようと思います。仏教はもともと悟りをめざして厳しい戒律のもとで修行に励む出家僧と、彼らを経済的に支える在家の人たちによって構成され、出家僧は社会の中でエリート的な存在であると言えるでしょう。それは大乗仏教においても同様であり、出家は自らのためだけでなく在家のために悟りを得ようとする指導者的な位置にあります。これが「悟りの仏教」(聖道門)で、あくまでも主役は出家僧ですが、「救いの仏教」(浄土門)となりますと、そこに大きな変化が起こります。

もう僧も俗もなく、みな一様に如来の救いに与るという構図になるのです。「悟り」は「みづから得る」ものですが、「救い」は「むこうから与えられる」ものですから、「救い」にはいかなる差もなく、戒律を守る出家僧も煩悩にまみれた凡夫も等しく如来の救いに与ることになります。いやむしろみずからの煩悩に悩み苦しむ凡夫こそ如来の救いの対象として浮上してくるのです。ここに登場する韋提希夫人もそうした凡夫として、釈迦・弥陀二尊の救いに与ることになります。


タグ:親鸞を読む
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