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往相は還相をもってはじめて完結する [「『証巻』を読む」その34]

(3)往相は還相をまってはじめて完結する

往相は還相をまってはじめて完結するということを見てきました。往相は往相だけとして終わることはありえず、還相となってはじめて完結するということです。そしてここで再度確認しておきたいのは、往相も還相も如来の回向(はからい)であるということです。往相とは「わたし」が救われることで、還相とは「わたし」が他の衆生を救うことですから、往相も還相も「わたし」〈に〉起っているのは間違いありませんが、しかし「わたし」〈が〉それらを起こしているのではないということです。「正信偈」に「往還の回向は他力による」とありますのは、そういう意味です。

ここまできまして、先の問い、「どうして親鸞は還相を証巻のなかに収めたのか」に答えることができます。「証巻」は往相回向の証を説くところですが、往相は往相として終わることはなく、還相となってはじめて完結するのですから、「証巻」は往相回向の証を説くだけで閉じることはできず、還相をそのなかに組み込まざるをえないのです。往相回向の証は現生において正定聚となることでしたが、それはおのずから利他教化の還相とならざるをえないということです。もう一歩ふみ込んで言えば、往相回向の証はそのままで還相回向であり、正定聚となることは取りも直さず還相のはたらきをすることに他ならないということです。

これは、往相が終わって、その後に新たに還相がはじまるのではないということです。もしそのようでしたら、往相は往相として完結し、その上で還相がはじまるということになりますが、見てきましたように往相はそれだけで終わることができず、還相をまってはじめて完結するのですから、往相と還相は切り離すことができません。だからこそ還相は「証巻」で説かれる必要があるのです。ところがしばしば往相と還相は切り離して考えなければならないと言われます。そして往相は今生だが、還相は来生のことであるとされます。われらは今生において浄土をめざして信心・念仏し、来生になって浄土往生ができたのちに再び娑婆に戻ってきて還相のはたらきをするのだというのです。これは真宗の通念になっていると言えます。


タグ:親鸞を読む
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