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名声、十方に聞こえん [『正信偈』を読む(その19)]

(10)名声、十方に聞こえん

 会うのはあくまで「これから」です。それに対して遇うのは、「もうすでに」遇ってしまっています。遇ってしまってから遇ったことにふと気づくのです。「あした遇うだろう」という日本語は不自然です。
 すぐ前に、遇うのは〈いま〉しかないと言いました。ところがここで、遇うのは〈もうすでに〉と言っているのはおかしいようように思われるかもしれません。でも〈もうすでに〉遇ってしまったことに〈いま〉気づくのです。その意味で、本願に遇うのは〈いま〉しかありません。
 「遇ひがたくして〈いま〉遇ふことをえたり、聞きがたくして〈すでに〉聞くことをえた」(『教行信証』序)という言い回しに〈いま〉と〈すでに〉の微妙な消息があらわされています。
 さて、第1章で述べましたように、名号はこちらから称えるより前に、向こうから聞こえてきます。まず聞名、しかる後に称名という順序になるのですが、しかしまず向こうから聞こえてくるからには、誰かが称名していなければなりません。いったい誰が称名しているのか、という疑問に答えるのが、この段の最後の「重ねて誓うらくは、“名声、十方に聞こえん”と」です。
 法蔵菩薩が48の願をたてた後、重ねて誓うことばが来るのですが(ということで「重誓偈」と呼ばれます)、親鸞がそれを「名号が世界にあまねく聞こえますように」とひと言に約めたのです。これは48願のなかでは第17願に当ります。「十方の諸仏が名号を称えて一切衆生にあまねく聞こえるようにしたい」という願いです。前にも言いましたように、この第17願に着目したところに親鸞の独自性があります。


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