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10月13日(木) [矛盾について(その436)]

 先日、苦しみと悲しみの違いについて考えました。そしてこう言いました、苦しみは「いま」に関わるのに対して、悲しみは「あした」に関わると。
 ここから、伝統的な仏教(聖道)は「いま」悟りを開かんとするのに対して、浄土は「あした」往生せんと願うという違いが生まれてきます。苦しみは「いま」襲われるのですから、「いま」脱却しなければ意味がありませんが、悲しみは「あした」を思って生まれてくるのですから、「あした」に願いをかけざるを得ないのです。こうして浄土思想には「あの世」が不可欠となります。ところが「あの世」というのは現代人にはまことに評判が悪い。前にも書きましたが、ぼく自身「あの世」なんてと思っていました。
 どうして「あの世」なんてと思うのでしょう。「あした」のあることを疑う人はいないのに、「あの世」となると途端に疑惑の眼を向けるのはどうしたことでしょう。その理由は明らかなように思えます。「あした」のあることは誰しも経験的に知っていますが、「あの世」があることは誰ひとりとして証言してくれる人がいないということです。「きょう」の日が終わり、目覚めると「あした」があります。でも、「この世」が終わり、目覚めると「あの世」があるのかどうか、これは誰も知りません。だから、「あの世」なんて言われると、どうして誰も知らないことを言えるのかと反発するのです。
 さてしかし、ここには考えなければならないことがあります。

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