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娑婆と浄土 [『浄土和讃』を読む(その43)]

(7)娑婆と浄土

 こちらに地球があり、向こうに月があるように、こちらに娑婆があり、向こうに浄土があるのでしょうか。どうも娑婆と浄土はそのような空間的な関係ではなさそうです。
 『末燈鈔』第3通で親鸞は関東の性信房に宛てて、こんなふうに言っています、「真実信心のひとは、この身こそあさましき不浄造悪の身なれども、こゝろはすでに如来とひとしければ、如来とひとしとまふす」と。さらには善導を引いてこう言います、「信心のひとはその心すでにつねに浄土に居(こ)す」と。身は娑婆にあって不浄造悪だが、その心はすでに浄土にあると言うのです。
 信心の人は一方では娑婆にいながら同時に浄土にいるということですから、娑婆と浄土は空間的に隔たっていないということです。しかし娑婆がそのまま浄土と言うわけにはいきません、両者はまったく異なります。そこで考えてみたいのは、これを時間的な関係と捉えることはできないかということです。「娑婆と浄土」の関係を「現在と過去」の関係と考えることはできないでしょうか。
 現在と過去はどのような関係にあるでしょう。
 ベルクソンが言うように、ぼくらはともすると時間を空間化します。直線のイメージを浮かべて、直線の真ん中に点を取り、それを現在とします。そして、その左側に伸びる部分を過去、右に伸びる部分を未来とするのです。こうしますと、直線の左半分(過去)と真ん中の点(現在)と右半分(未来)は同時に並んでいます、ちょうど太陽と地球と月が並んで存在しているように。しかし、考えるまでもなく、過去はもはやどこにも存在しませんし、未来もいまだどこにも存在しません。
 かくして「過去はどこへ行った?」、「未来はどこから来る?」という問いに悩まされることになります。この問いは時間を空間化することから生まれるのです。

タグ:親鸞を読む
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