SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その28) ブログトップ

五濁悪時悪世界 [親鸞の和讃に親しむ(その28)]

(8)五濁悪時悪世界

五濁悪時悪世界 濁悪邪見の衆生には 弥陀の名号あたへてぞ 恒沙(ごうじゃ)の諸仏すすめたる(第86首)

濁り果てたる世の中の、悪と邪見のものどもに、弥陀の名号くすりとて、仏たちみな勧めたり

われらに弥陀の名号を与えてくださるのは「恒沙の諸仏」であることが詠われます。そのもとは第17の願にあります、「十方世界の無量の諸仏、ことごとく咨嗟して、わが名を称せずは、正覚を取らじ」と。十方の諸仏がことごとく「わが名を称する」のは、たんに阿弥陀仏を「咨嗟(ほめたたえる)」することではなく、一切の有情に漏れなく弥陀の名号を届けるためであるということ、ここに第17願の本質があります。その本願があるからこそ、『小経』において「恒沙の諸仏」が「弥陀の名号すすめたる」と、この和讃は詠っているのです。弥陀の本願は一切の衆生の往生(救い)を願いますが、その願いが「いつでも帰っておいで」という「よびごえ」になったものが「南無阿弥陀仏」すなわち名号です。この名号を一切の衆生に届けるのを弥陀は恒沙の諸仏に委ねたということです。

本願は弥陀から直に送られてくるのではなく、恒沙の諸仏を通して届けられるということ、ここには深い意味が潜んでいます。

本願は永遠なるものでしょう。つまりいつかどこかで始まり、またいつかどこかで終わるものではなく、いつでもどこでもあります。そうでなければ、一切有情の救いは名ばかりと言わなければなりません。さてしかし「いつでもどこでも」ある本願に遇うことができるのは「いまここ」でしかありません。「いつでもどこでも」ある本願は、それに遇うことができた「いまここ」にしかないのです。「いまここ」で本願に遇うことがなければ、本願などどこにもありません。そして「いまここ」で本願に遇うということは、恒沙の諸仏のどなたかから本願の名号を届けられるということです。かくして本願は永遠の弥陀から直に送られてくるのではなく、恒沙の諸仏の中のお一人から名号として届けられるということになります。


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その28) ブログトップ