SSブログ
親鸞の和讃に親しむ(その60) ブログトップ

万行諸善の小路より [親鸞の和讃に親しむ(その60)]

(10)万行諸善の小路より

万行諸善の小路より 本願一実の大道に 帰入しぬれば涅槃の さとりはすなはちひらくなり(第53首)

自力修行の小路より、本願力の大道に、入ればすなわち涅槃へと、おのずからして至り着く

本願の大道に帰入することができれば、そのとき涅槃のさとりがひらけると詠われます。「さとりはすなちひらくなり」という表現は誇大ではないかという印象を持ってしまいますが、そのような印象のもとは「悟り」ということばに「仏になる」という意味が含まれているからでしょう。本願に帰入しただけで、ただちに仏になるというのはいくら何でも言い過ぎだと思ってしまうのです。しかしここで「さとり」と言われるのは「覚り」であり、目覚めという意味に違いありません。涅槃に目覚めるということです。涅槃(ニルヴァーナ)とは「煩悩の火が吹き消された境地」の意ですが、涅槃に入ること(すなわち仏になること)と、涅槃に目覚めることはまったく別です。金子大栄氏に「月ははるかかなたにあれども、その光はここに届いている」という趣旨のことばがありましたが、涅槃そのものはかなたにあるけれども、涅槃の光がすでにここまで届いているのです。身は生死の迷いのなかにありながら、こころは涅槃の光を浴びているのです。

「生死の迷いのなかにある」と言いますが、そんなふうに言えるのはすでに涅槃に目覚めているからです。涅槃の目覚めが無ければ、生死はただの生死であり、それは迷いでも何でもありません。そこには喜びも悲しみあり、楽しみも苦しみもあるでしょうが、われらは何十年かそんな経験をしながら、いずれこの世を去っていくことになる、それが人生であり、ただそれだけのことです。そのように生きているとき、これがただひとつの現実で、その外部があるなどとは思いもよりません。しかしそれは迷い(囚われ)であって、それには外部があることにふと気づかされることがあります。それが本願に遇い、涅槃にの光に照らされたときで、そのときわれらは「わたし」の牢獄に囚われていることに気づかされるのです。それに気づいたからといってその牢獄から出ることができるわけではありません。涅槃に目覚めることは「涅槃に入る」ことではありません。でも涅槃に目覚めることで「涅槃のかど(門)に入る」ことができるのです。

(第6回 完)


タグ:親鸞を読む
nice!(0)  コメント(0) 
共通テーマ:学問
親鸞の和讃に親しむ(その60) ブログトップ