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至心に回向せしめたまへり [『教行信証』「信巻」を読む(その68)]

(6)至心に回向せしめたまへり


ここでもういちど「信巻」のはじめのところで引用されていました第十八願成就文に戻りましょう。「その名号を聞きて信心歓喜せんこと、乃至一念せん。至心に回向せしめたまへり。かの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」という一文に『大経』の、そして『教行信証』のエキスが濃縮されていると言えます。しかしそれも親鸞がこの文に独自の読み方を施してくれたからこそであり、もしこれを「その名号を聞きて信心歓喜し、すなはち一念に至るまで至心に回向してかの国に生ぜんと願ずれば、すなはち往生を得、不退転に住せん」と普通に読んでいれば、この文に親鸞が読み込んだ深い意味がすっかり消えてしまいます。


「至心に回向せしめたまへり」と読むか、「至心に回向して(かの国に生ぜんと願ずれば)」と読むか。もうあらためて言うまでもないでしょう、前者の主語は「如来」であるのに対して、後者の主語は「われら」です。すなわち如来がその徳のすべてをわれらに回向してくださるのか(ときどき勘違いがおこりますが、「せしめたまへり」とは使役表現ではなく尊敬表現です)、それともわれらの徳を回向して往生しようとするのか、ここに他力と自力の分水嶺があります。このように読み方一つで同じ文がまったく異なる相貌をもつようになることに驚かされますが、ここに潜んでいる問題について思いを廻らしておきたいと思います。


素朴な疑問として、どのような文であれ、それをどう読むかについての規則があり、それに則っていれば正しい読みであり、そうでなければ誤りということになるのではないかと思います。どのようにも読めるということもありますが、それはもとの文が曖昧であるということであって、通常は正しい読みがあるはずでしょう。いまの「至心回向」はどうかと言いますと、通則にしたがえば「(われらが)至心に回向して」と読むのが正解と言わなければなりません。それが文章の作法に則った読みです。ただ、ときに文はそれを書いた人の意思を超えた意味(無意識の意味)を含むことがあります。その場合、その文を読むということは、無意識の意味を読み取ることになります。親鸞はそれをしていると言えるのではないでしょうか。



タグ:親鸞を読む
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