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たまたま [『ふりむけば他力』(その40)]

(2)たまたま

 「たまたま」遇うことができたという感覚について考えてみましょう。そもそも「遇う」ということば自体に「たまたま」の意味が含まれています。遇という字を調べてみますと、之繞(しんにょう)が「いく」をあらわし、禺が「たまたま」ということですから、思いがけず道であうという意味になります。同じ「あう」でも、「会う」と書きますと誰かに会おうと思って会うということですが、「遇う」はそんな気はまったくないのに「たまたま」遇うということです。誰かに「たまたま」遇う場合にも二通りあります。一つはすでに知っている人に道でばったり遇う場合で、「やあ、君だったか、奇遇だね」というとき。これはまあちょくちょくあることですが、もう一つはまったく知らない人に遇う場合で、こちらはほんとうに不思議です。知らない人なのに、「ああ、遇えた」と思うのですから。
 どちらの場合も「ご縁」があって誰かに遇うことができたのですが、「ご縁」というものは誰かに遇ってから、事後にはじめて気づきます。
 「たまたま」であるということは、誰かに遇ってはじめて、その縁があったことに気づくということであり、事前には知ることができないということです。第3章で「縁起と原因」の違いについて考えましたが、縁起は事前に知ることができないのに対して、原因は事前に知ることができるという点においてもはっきり区別することができます。過去の経験から、あることAが起るとき、それに先立ってつねにあることBが起っていることを知り、そこからAの原因はBであると判断します。そしてこの法則を知ることによって、われらはAを得ようとしてBを起こす(あるいはAを避けようとしてBを排除する)ことができるわけです。しかし「ご縁」は事が起ってから後ではじめて「ああ、ご縁があった」と気づきます。
 さて、まったく知らない人に遇うという不思議について考えておきたいと思います。これまで一度もあったことがないのに「ああ、この人だ、この人を待っていたのだ」と感じるのはどういうことでしょう。考えられるのはただひとつ、実はもうすでにその人とどこかであっていたということです。しかしそのことをすっかり忘れてしまい、忘れたこと自体を忘れてしまっている。ところがあるときその人とばったり出あい、「ああ、この人だ」と思い出すのです。これが“fall in love”の瞬間です。

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