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本文10 [はじめての『尊号真像銘文』(その58)]

(5)本文10

 本文9につづいて、『浄土論』冒頭の一文「世尊、われ一心に尽十方の無碍光如来に帰命したてまつりて、安楽国に生ぜんと願ず」の「帰命尽十方無碍光如来、願生安楽国」の部分が解説されます。

 「帰命尽十方無碍光如来」と申すは、「帰命」は南無なり。また帰命と申すは如来の勅命にしたがふこころなり。「尽十方無碍光如来」と申すはすなわち阿弥陀如来なり。この如来は光明なり。「尽十方」といふは、「尽」はつくすといふ、ことごとくといふ。十方世界をつくしてことごとくみちたまへるなり。「無碍」といふは、さはることなしとなり。さはることなしと申すは、衆生の煩悩悪業にさへられざるなり。「光如来」と申すは、阿弥陀仏なり。この如来はすなわち不可思議光仏と申す。この如来は智慧のかたちなり。十方微塵刹土にみちたまへるなりとしるべしとなり。「願生安楽国」といふは、世親菩薩、かの無碍光仏を称念し信じて安楽国に生れんと願ひたまへるなり(本文11に続く)。

 「尽十方無碍光如来に帰命したてまつりて」の「帰命」とは「南無」ということです。また帰命とは、如来の勅命に従うという意味です。「尽十方無碍光如来」とは、すなわち阿弥陀如来のことです。この如来は光明です。「尽十方」とは、尽はつくすということ、ことごとくということです。十方世界をつくしてことごとく満ちておられるということです。「無碍」とは、さわりなしということです。さわりなしというのは、衆生の煩悩や悪業によって妨げられないということです。「光如来」と言いますのは、阿弥陀仏のことです。この如来を不可思議光仏と言います。この如来は智慧が形となって現れたものです。そして、十方のあらゆる世界に満ちておられると知るべきです。「安楽国に生ぜんと願ず」とは、世親菩薩が無碍光仏を称念し信じて、安楽国に往生したいと願われているのです。

タグ:親鸞を読む
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