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願作仏心はすなはちこれ度衆生心 [親鸞最晩年の和讃を読む(その19)]

(3)願作仏心はすなはちこれ度衆生心

 さて、浄土の大菩提心とは願作仏心のことであり、それはまた度衆生心に他ならないと詠われます。この願作仏心と度衆生心は曇鸞の『論註』に出てくることばで(「この無上菩提心は、すなはちこれ願作仏心なり。願作仏心は、すなはちこれ度衆生心なり」)、親鸞はこのことばを非常に重視し、「信巻」でこう言っています、「真実信心はすなはちこれ金剛心なり。金剛心はすなはちこれ願作仏心なり。願作仏心はすなはちこれ度衆生心なり。度衆生心はすなはちこれ衆生を摂取して安楽浄土に生ぜしむる心なり。この心すなはちこれ大菩提心なり」と。
 この「すなはちこれ(即是)」という言い回しに注目したいと思います。
 大乗仏教のエッセンスが度衆生心にあることは言うまでもありません。自分の救いだけをめざすのではなく、一切衆生とともに救われることをめざすのが大乗の菩薩思想であり、願作仏心は、また度衆生心でなければなりません。それはよく理解できることですが、「願作仏心はすなはちこれ(即是)度衆生心なり」と言われますと、そこに微妙な違いがあることに気づかざるをえません。願作仏心はそれに止まることなく、度衆生心とならなければならない、と言うのと、願作仏心はそのまま度衆生心であり、度衆生心でないような願作仏心は願作仏心ではない、と言うのとの違いです。
 「願作仏心は度衆生心〈とならなければならない〉」と「願作仏心は度衆生心〈にほかならない〉」。
 もう一度願作仏心と度衆生心の意味を確認しておきますと、前者は「弥陀の悲願をふかく信じて仏にならんとねがふこころ」(左訓)であり、後者は「よろづの有情を仏になさんとおもふこころ」(同)です。で、己が仏にならんと願うだけでなく、よろづの有情を仏になさんと願わなければならない、というのは菩薩のもつべき心がけとしてよく理解できます。菩薩たるもの、自利だけではなく利他を考えなければなりません。さてしかし、己が仏にならんと願うことは、取りも直さず、よろづの有情を仏になさんと願うことであると言われますと、「うん、どうして?」となります。なぜ、そんなことが言えるのかと。

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