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凡夫の生死貪じて厭はざるべからず [「信巻を読む(2)」その44]

(9)凡夫の生死貪じて厭はざるべからず

「断四流」について、経典からの引用につづいて、善導の『般舟讃』と『往生礼讃』から引用されます。

光明寺の和尚のいはく、「もろもろの行者にまふさく、凡夫の生死貪じて厭(いと)はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣(ねが)はざるべからず。厭へばすなはち娑婆永く隔つ、欣へばすはなち浄土につねに居せり。隔つればすなはち六道の因亡じ、輪廻の果おのづから滅す。因果すでに亡じて、すなはち形と名と頓に絶えぬるをや」と。

またいはく、「仰ぎ願はくは一切往生人等、よくみづからおのれが能を思量せよ。今身にかの国に生ぜんと願はんものは、行住坐臥にかならずすべからく心を励ましおのれに剋して、昼夜に廃することなかるべし。畢命(ひつみょう)を期(ご)として(この世の命が終わるまで)、上一形(いちぎょう、一生)にあるは少しき苦しきに似如(に)たれども、前念に命終して後念にすなはちかの国に生じて、長時永劫につねに無為の法楽を受く。乃至成仏までに生死を経ず。あに快(たの)しみにあらずや、知るべし」と。以上

前の文が『般舟讃』で、後の文が『往生礼讃』ですが、『般舟讃』の引用文の出だし部分「凡夫の生死貪じて厭はざるべからず。弥陀の浄土軽めて欣はざるべからず」という言い回しが少し分かりにくいと思います。これは「凡夫というものは生死を貪るものですが、それを厭わなければなりません。また弥陀の浄土を軽しめるものですが、それを願わなければなりません」ということです。凡夫というものはこの娑婆での生活に執着し、そこから離れようとはしないが、苦悩の娑婆を厭うべきであるということ、また浄土へ往きたいと思うことはないが、安楽の浄土をこそ願うべきであるということです。源信はそれを「厭離穢土、欣求浄土」ということばで表現し、「厭離穢土といふは、それ三界は安きことなし、もつとも厭離すべし」、「欣求浄土といふは、極楽の依正は功徳無量なり」と述べています(『往生要集』)。


タグ:親鸞を読む
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