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如来の御代官 [「『おふみ』を読む」その10]

(10)如来の御代官

当面の箇所において、その違いは「如来の御代官」ということばにあらわれています。親鸞ならこういう言い方はしないだろうと思うのです。

代官というのは、如来と衆生を媒介して、如来の教えを衆生に伝える役割をするという趣旨でしょう。なるほど僧や善知識というのは、浄土の教えを人々にねんごろに伝える仕事をしているわけですから、如来の代官というのはそれをうまく表現しているではないか、という気もします。さてしかし、人々に伝えることができるのは「知識」としての浄土の教えにすぎません。いわゆる教義です。どの宗教にも教義があり、それについての精密な学問、教義学があります。学問をすることで教義について詳しく知ることはできますが、それはしかし信ずることとはまったく別のことです。

信ずることばかりは教えることはできません。それは「ひとへに弥陀の御もよほしにあづか」るしかないのです。だからこそ、そんなふうに「如来の御もよほしで」念仏しているひとを「わが弟子とまうすこと、きはめたる荒涼のこと」です。「如来よりたまはりたる信心を、わがものがほにとりかへさんとまうすにや」と言わなければなりません。われも「如来の御もよほしで」念仏し、かれも「如来の御もよほしで」念仏しているのですから、これこそまさしく御同朋、御同行です。

一方、代官となりますとどうでしょう、御同朋、御同行と撞着してこないでしょうか。蓮如の言い分では、われもかれも「如来の教法」を信じているのだから、「とも同行なるべきもの」ということですが、しかし一方は「如来の教法」を伝授し、他方はそれを受持するのですから、普通の感覚ではやはり師弟の関係になるのではないでしょうか。そして、そうだとしますと、仏光寺の名帳・絵系図との境界線もぼやけてくるのではないかという気がします。


タグ:親鸞を読む
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