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ほんものとにせもの [『ふりむけば他力』(その103)]

(12)ほんものとにせもの

 さて、空の思想は「〈わたし〉は物語にすぎない」と言いますが、どんな根拠でそんなふうに言えるのかと尋ねられたとき、「現に事実は無我(空)であるから」と答えるだろうと思われます。「わたしという物語」に対する「無我(空)という事実」。ここには事実がほんもの(真)であって、物語はにせもの(偽)であるという前提があり、われらは須らくにせものである物語を捨てて、ほんものである事実に立たなければならないとされるのです。さてしかしこの点について根本的な疑問が生まれます。「わたし」は物語であり、われらはみなその物語を生きているとすれば、どのようにしてそれを捨て、無我という事実の世界に出ることができるのか、という疑問です。われらはみな「わたしという夢」のなかにあるとすれば、いったいどのようにしてその夢の外に出ることができるのかということです。
 夢のなかにいる人は、どうがんばっても自分が夢のなかにいることを自分で「知る」ことはできず、それは外から「気づかせてもらう」しかありません。
 われらがものごとを「知る」ことには限界があることを龍樹は『中論』の至るところで述べていますが、その際用いられる代表的な表現法に「四句」があります。四句といいますのは、何ごとか(A)について、「Aである」、「Aではない」、「Aであり、かつAではない」、「Aではなく、かつAでないのでもない」の四種類の命題をたて、それをすべて否定することを言います。たとえばアートマンの存在について、「アートマンは存在する」、「アートマンは存在しない」、「アートマンは存在するし、かつ存在しない」、「アートマンは存在しないし、かつ存在しないのでもない」の四つのすべてを否定するのです。これは要するにわれらはアートマンの存在について「知る」ことはできないということです。ではわれらはアートマンについて何も語れないのでしょうか。とんでもありません、仏教は2500年の間、「アートマンはない(無我である)」と語りつづけてきました。
 これをどう了解すればいいのでしょう。答えはひとつ、「われはない」ことを自ら「知る」ことはできず、それは外から「気づかせてもらう」しかないということです。

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