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善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり [『歎異抄』ふたたび(その113)]

(5)善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり


先の文(1)につづいてこうあります。


まことに如来の御恩といふことをば沙汰なくして、われもひとも、よしあしといふことをのみ申しあへり。聖人の仰せには、「善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。そのゆゑは、如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、善きをしりたるにてもあらめ、如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほしたらばこそ、悪しさをしりたるにてもあらめど、煩悩具足の凡夫、火宅無常の世界は、よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと、まことあることなきに、ただ念仏のみぞまことにておはします」とこそ仰せは候ひしか。


「総じてもつて存知せざるなり」という言い回しは第2章にも出てきました。そこでは、わたし親鸞としましては「よきひとの仰せ」を信ずるだけであり、「念仏は、まことに浄土に生まるるためにやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん、総じてもつて存知せざるなり」とありました。親鸞は知をすて信をとる人です。知とは「こちらから何かをゲットすること」であり、それに対して信とは「むこうから何かにゲットされること」です。


何が善く何が悪いかを知ろう(こちらからゲットしよう)としても、できるものではないという諦め(明らかに見ることです)があります。これはよしと思ってしたことが悪い結果を招いたり、その逆に、これはわろしと思っていたことが実際にはよろしかったりするのは日常茶飯で、「如来の御こころに善しとおぼしめすほどにしりとほ」すこと、「如来の悪しとおぼしめすほどにしりとほ」すことはできることではありません。その根本的な理由は、何が善く何が悪いかを知ろう(こちらからゲットしよう)としているのは「わたし」であるということにあります。われらは何の根拠もなく「わたし」をすべての上においていますが(我執です)、そうである限り「よろづのこと、みなもつてそらごとたはごと」と言わざるを得ません。



タグ:親鸞を読む
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