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わがうちなる法蔵菩薩 [『教行信証』精読2(その190)]

(21)わがうちなる法蔵菩薩

 さて最後の「かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化す」ということ、すなわち還相回向です。天親讃のところで往相がそのまま還相であることを見ましたが、もう一度そこに立ち返りたいと思います。
 「かならず無量光明土にいたれば」が往相で、「諸有の衆生みなあまねく化す」が還相ですが、この言い回しからは、まず往相、そののちに還相と受けとめるのが自然かもしれません。それは「いたれば」を「いたるならば」という仮定を意味するものと理解するからだと思われます。しかし文語表現としては、「いたれば」は「いたるならば」という仮定ではなく、「もういたっているので」という確定を意味します(仮定を表そうとしますと「いたらば」となります)。としますと、まず往相があり、しかるのちに還相がくるということではなく、往相があるところにはすでに還相があるということ、つまり、往相と還相は同時ということになります。
 往相とは信心をえて正定聚となることです。すなわち本願力のはたらきをわが身に感じて、「わたしのいのち」がそのままで「ほとけのいのち」を生きていることに気づくことです。それは、別の言い方をすれば、法蔵がわがうちにいることに気づくことであり、法蔵の誓願をわが誓願と感じることに他なりません。「若不生者、不取正覚(生まれずば、正覚をとらじ)」という誓いをわが誓いと感じることです。歎異抄のことばでいえば、「一切の有情はみなもつて世々生々の父母兄弟なり。いづれもいづれも、この順次生に仏になりてたすけさふらふべきなり」と思うことです。
 正信偈では「みなあまねく化す」といい、歎異抄では「たすけさふらふ」といいますが、わが力で「化す」のでも「たすける」のでもないのは言うまでもありません、みな本願力のはたらきで救われるのです。ただ「ほとけのいのち」を生きていることに気づきますと、そうした本願力のはたらきのなかに自分も入らせてもらい、救われつつも同時に救うはたらきの一翼を担わせてもらうことになると思えるのです。「かならず無量光明土にいたれば、諸有の衆生みなあまねく化す」とはそういう意味に違いありません。

                (第11回 完)

タグ:親鸞を読む
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